僕が医局に入らなかった理由
- 2018/03/03
- 21:45
医局というのは、教授をトップにした医者の集団のグループの事である。
いわゆる山崎豊子の「白い巨塔」のことである。(よく調べて書いた小説だと感心してしまう。)


ヒエラルキーの最底辺は研修医。
内科や外科のようないわゆるメジャーな科になると20人以上も研修医を抱えている。
その後、研修医を終えて、大学院生になり、博士号を取ると助教になる。
30代後半で講師になる。医局内のグループを束ねる、会社でいうと課長クラス。
40代前半で准教授に。教授の補佐役。教授の一つ下のポストだが、権限はほとんどなく、教授との権力格差はとても大きい。
そして教授、教育、臨床、研究の全てを統括する、医局の王である。皆医局員は口では言わないが、これを目指して努力するわけである。
教授が持つ権限の中で最も大きなものが、「人事権」である。どこの病院にどの医師を送り込むのかを決める事ができるのだ。
かつての医師のキャリアプランとしては、ほぼ全員がこのピラミッドの中に属して、教授に絶対服従するという道以外にはなかった。
ネットもない昔では、教授に背いて医局をクビになることは、医師として働けなくなるという事とまで言われていたのである。
だれもが行かないような地方の田舎であろうとも、教授の命令であれば行かざるを得なかった。
確かに医局に入っていれば、職には困らないし、上の言うことを聞いていればそれなりのポストに就くことも出来るのかもしれない。
でも僕は絶対に医局には入りたくなかった。
何故僕は大学病院に行かなかったのか。
大学時代の外科の医師はよく「俺たち外科が一番、一番偉いんだ。」と俺たち学生に耳にタコが出来るほど言って来た。
さらに、自分はどれだけの苦労をして来たか、お前らは楽をしすぎだ、「もっと苦労をすべき、苦労は買ってでもしろ。」と説教すらして来た。
「苦労を買ってでもしろ。」
この言葉は所詮
「苦労を売る側の人間の言葉であり、買う側の言葉ではない。」
さらにはオペ中にコメディカルに怒鳴り散らし、泣かせるのもよく目撃した。
「医局に入らないような医師はクズ。」のような事もよく言っていた。
そもそも山の登り方なんて100万通りあるべきであるし、何故一つの方法しか選べないのか?
強く疑問を思ったのは覚えている。
というか、いい年こいて下の学年にこんなセリフを言う、こんな医者にだけは絶対になりたくなかった。
本来上の人間は下の人間にやる気にさせるべく、導くべきであるのに対して怒鳴り散らし言葉の暴力を浴びせるなんて教育の放棄でしかままならない。
ボクサー時代後楽園ホールで試合をした時、いろんな世界チャンプと話す事が出来たが、彼らはだれ一人として
「ボクシングが一番!」
だなどと言う人は皆無だった。
将棋の羽生さんは「将棋が一番!」と言わないのと一緒である。
そもそも本当に一流は自分の人生に納得していれば他なんて気にならないはずである。
また、本当に強い人ほど他人に優しく、人格的にも一流であるのだと、つくづく思った。
「俺たちの時代は〜」と始まるだろうが、時代は変わった。
医局は崩壊し、そんな古いやり方では人は集まらないと皆分かっているのではないか?
確かに皆の歩く道以外のルートを選ぶのには恐怖もあった。
けれども、意地でも医局以外のルートで一流の外科医になってやろうと思った。
それに海を渡って外の世界を見て見たいという好奇心を抑えられなかった。
USMLEの勉強を研修医から始め、海外研修を目標に動き始めた頃、どこから聞きつけたか
「日本の医療が一番なのに、そんなことは不毛」
「お前にそんな試験が受かるわけがない」
とよく馬鹿にされた。
向こうで研修先が決まったら、挨拶にぜひ行きたいものだ。
僕は中からではなく外から日本医療を良くしたいと思っている
志が一緒であれば、どんなルートがあったって良いとぼくは思う。
いわゆる山崎豊子の「白い巨塔」のことである。(よく調べて書いた小説だと感心してしまう。)


ヒエラルキーの最底辺は研修医。
内科や外科のようないわゆるメジャーな科になると20人以上も研修医を抱えている。
その後、研修医を終えて、大学院生になり、博士号を取ると助教になる。
30代後半で講師になる。医局内のグループを束ねる、会社でいうと課長クラス。
40代前半で准教授に。教授の補佐役。教授の一つ下のポストだが、権限はほとんどなく、教授との権力格差はとても大きい。
そして教授、教育、臨床、研究の全てを統括する、医局の王である。皆医局員は口では言わないが、これを目指して努力するわけである。
教授が持つ権限の中で最も大きなものが、「人事権」である。どこの病院にどの医師を送り込むのかを決める事ができるのだ。
かつての医師のキャリアプランとしては、ほぼ全員がこのピラミッドの中に属して、教授に絶対服従するという道以外にはなかった。
ネットもない昔では、教授に背いて医局をクビになることは、医師として働けなくなるという事とまで言われていたのである。
だれもが行かないような地方の田舎であろうとも、教授の命令であれば行かざるを得なかった。
確かに医局に入っていれば、職には困らないし、上の言うことを聞いていればそれなりのポストに就くことも出来るのかもしれない。
でも僕は絶対に医局には入りたくなかった。
何故僕は大学病院に行かなかったのか。
大学時代の外科の医師はよく「俺たち外科が一番、一番偉いんだ。」と俺たち学生に耳にタコが出来るほど言って来た。
さらに、自分はどれだけの苦労をして来たか、お前らは楽をしすぎだ、「もっと苦労をすべき、苦労は買ってでもしろ。」と説教すらして来た。
「苦労を買ってでもしろ。」
この言葉は所詮
「苦労を売る側の人間の言葉であり、買う側の言葉ではない。」
さらにはオペ中にコメディカルに怒鳴り散らし、泣かせるのもよく目撃した。
「医局に入らないような医師はクズ。」のような事もよく言っていた。
そもそも山の登り方なんて100万通りあるべきであるし、何故一つの方法しか選べないのか?
強く疑問を思ったのは覚えている。
というか、いい年こいて下の学年にこんなセリフを言う、こんな医者にだけは絶対になりたくなかった。
本来上の人間は下の人間にやる気にさせるべく、導くべきであるのに対して怒鳴り散らし言葉の暴力を浴びせるなんて教育の放棄でしかままならない。
ボクサー時代後楽園ホールで試合をした時、いろんな世界チャンプと話す事が出来たが、彼らはだれ一人として
「ボクシングが一番!」
だなどと言う人は皆無だった。
将棋の羽生さんは「将棋が一番!」と言わないのと一緒である。
そもそも本当に一流は自分の人生に納得していれば他なんて気にならないはずである。
また、本当に強い人ほど他人に優しく、人格的にも一流であるのだと、つくづく思った。
「俺たちの時代は〜」と始まるだろうが、時代は変わった。
医局は崩壊し、そんな古いやり方では人は集まらないと皆分かっているのではないか?
確かに皆の歩く道以外のルートを選ぶのには恐怖もあった。
けれども、意地でも医局以外のルートで一流の外科医になってやろうと思った。
それに海を渡って外の世界を見て見たいという好奇心を抑えられなかった。
USMLEの勉強を研修医から始め、海外研修を目標に動き始めた頃、どこから聞きつけたか
「日本の医療が一番なのに、そんなことは不毛」
「お前にそんな試験が受かるわけがない」
とよく馬鹿にされた。
向こうで研修先が決まったら、挨拶にぜひ行きたいものだ。
僕は中からではなく外から日本医療を良くしたいと思っている
志が一緒であれば、どんなルートがあったって良いとぼくは思う。